レールマウンテンバイク Gattann Go !!(ガッタンゴー) 岐阜県飛騨市神岡町東雲1327-2 2017年5月18日 線路は残るよいつまでも。。

2017年5月17日からの飛騨高山地方への探索の序でに、前から気になっていました、岐阜県飛騨市の神岡町に在ります、廃線となった旧神岡鉄道神岡線のレール跡を使い自転車を走らせるレールマウンテンバイク Gattann Go !!に乗ってきましたね。。

けっこう以前に廃刊になりました愛読書のワンダーJapan だかで紹介されていて知ったのですが。。

いつの間にやらけっこう話題になり其れなりに有名らしいですね。。

しかしこの神岡町辺りになりますと、神奈川県から向かうとなると微妙に遠いところとなりまして。。

こちら方面を訪れる機会の無い為に、行けずじまいでしたね。。

この辺りなら1泊で行くには僕にとっては適度な場所と言う感も有るのですけれどね。。

そんな事でしたが、久し振りに1泊で長野県方面に滝訪問旅行で訪れる事となりまして、2日目の朝1に訪問させて貰う事になりましたね。。

とりあえず「高山の古い町並み」で有名な高山駅周辺は、何故か今まで訪れた事が有りませんでしたので、観光がてらその辺りに泊まる事にしまして。。

次の日に国道41号線を走り、40km程で神岡町のGattann Go!!のスタート場所で集合場所となります、2006年に廃線になった旧神岡鉄道神岡線の奥飛騨温泉口駅に向かうと言う感じの予定を組みましたね。。

そんな事で17日に滝巡りなどをした後に、泊まる宿となります高山駅から6km強の国道41号線沿いに在る「臥竜の郷」なる宿にチェックインしてから、「高山の古い町並み」が在る駅方面に向かいましたね。。

しかし時刻はもはやかなり暗くなった18時半過ぎ。。

「高山の古い町並み」の店たちは既に閉まっておりまして、景観だけを観る事となりました。。

さあ夕食はどおしたものかと、街中を流れる宮川の橋から川景色を眺め考えましたが。。

宛てもなく散策をしながらとなるに決まっていますと。。

しかしこの様な初めての地方の街を歩くのはなんだかワクワクするもので、ましてや高山駅の街の中。。

本町2丁目商店街などに行き着きまして、なんだか楽しい通りと想いながら歩いたりしましたね。。

店はどこも閉まり気味でしたが、なんとか高山ラーメンを食べようと見付けました「てながあしなが本町店」で、高山ラーメンと飛騨牛だかのセットをお安く食べて店を出ましたと。。

しかしお腹がかなり減っていましたので、最早なにを食べても旨く感じる状態でして、旨かったとしか言いようがなく。。

それ以上に昨夜からの長距離運転が効くに効いて、実はもうこの時は眠たくて眠たくて。。

何が何だか分からない状態で、何とか宿に戻ったのでした。。

坂道のアーケード街を駐車場に向かい歩いた筈ですが、何処の脇道の駐車場に駐車したかの判断も危うくて、何度か道を行ったり来たり。。

何とか車を見付けまして、宿に着いたらバタンキューでしたね。。

そんな事で、昨夜は温泉にも浸からずに部屋に着いたら眠ってしまいましたが、お陰で次の日の朝はバッチリと元気に快復しましたね。。

早朝から露天風呂に浸かりましたが、気持ち良かったですわ。。

しかしこの「臥竜の郷」と言う温泉宿だかは、スーパー銭湯的な宿だと想い、安さを求めて期待も薄く宿泊させて貰いましたが、意外に落ち着いていて上質な宿にも感じてしまいましたね。。

朝から温泉に浸かりスッキリしたところで。。

目の前は国道41号線ですから、これを神岡町に向けて走れば良いだけだと言う事で向かいましたね。。

とりあえずこのGattann Go !! に乗るのを2日目の朝1にしました理由は幾つか有りましたね。。

先ずはこちらは予約無しでも空いていれば乗れると言う事ですが。。

基本的には予約制で、だいたい1時間に1サイクルでいっぺんに運行させると言う感じのシステムらしいですからね。。

平日のオフシーズンだからと言って、予約無しで訪れて予約が埋っていたら少なくとも1時間は待ちますし。。

何だか1人乗りや2人乗りや3人乗りやら、色々な形状の車両が有りますので。。

例え予約で埋っていなくても、自分達の都合に合う車両が空いているかは分かりませんからね。。

そして朝一番と言うのは、他の観光の後にすると時間に遅れる懸念が生まれますからね。。

さらに僕の美容室は木曜日が定休日となりますので。。

大体1泊旅行に行く場合は水曜日を臨時の休みとして追加し、水曜日~木曜日の日程で向かう事になるのですが。。

こちらGattann Go ! ! は水曜日が定休日となっていましたからね。。

まあどちらにしましても遠くから訪れる場合は、時間に合わせるのが難しくなるかと想いますから、近郊に宿を撮って木曜日の朝1の予約をして向かうと言う事が定石でしたかね。。

そんな事で、国道41号線を神岡町に向かい走りだしましたね。。

高山市街地から飛騨市方面に向かう国道41号線は、高山国府バイパスとなり走りやすかったですね。。

Gattann Go !! のこの日の朝1番のスタート時間は午前10時となりますので、予約したその時間に遅れないように、高山の宿は午前8時過ぎくらいには出発しましたね。。

早く着いたら回りを色々と見学していれば良いと言う事ですからね。。

まあ通った事の無い道ですし、何よりここまで来て遅れて乗り損ねるのだけが怖かったですからね。。

どうもこれだから予約制は苦手ですが、これはアトラクションを円滑に進めるには仕方ないところでしょうね。。

しかしこの快適そうな道を観ると、遅れる懸念は無さそうでしたね。。

6.3kmだかのバイパスを過ぎても、道は其れなりに快適な感じがしましたしね。。

回りにも適度に店舗などが有りまして、想っていたほど山間部の道と言う感じでもないと言う印象が有りましたかね。。

まあ宮川沿い辺りを高山本線と連なるように走ってる感じで、飛騨市の中心地も近いんでしょうからね。。

何だかナビに従ったからかは覚えていませんが。。

国道41号線より手前を右折して、県道75号線神岡河合線を進み神岡町を目指す事になりましたね。。

でもこの道も其れなりに快適に走れましたね。。

何だかんだで昨日からでしたが、飛騨高山辺りの幹線道路と言える道は走り易かった印象が残りましたね。。

岐阜県北東端に位置する高原川沿いの小さな盆地に開けた町となります神岡町は、2004年に吉城郡の4町村が合併して飛騨市となりましたが。。

この町は東洋一の鉱山とも言われました神岡鉱山がある鉱山の町であったと。。

神岡鉱山は約2億5千万年前にできたとされる飛騨片麻岩と言われている岩石で構成されていて、その岩石中に金、銀、銅、亜鉛・鉛・銀が含まれていましたと。。

そして日本を代表する非鉄金属鉱山であり、明治以降の日本における産業の近代化を支えてきた鉱山であったと。。

なんでも元々は、720年辺りに金を産出して天皇に献上したとの口伝があるくらいの古い歴史があり、この頃から金、銀、銅などが採掘されていたらしいと。。

その後も利権者が代わりながら採掘は続けられて、1589
年辺りには越前大野の糸屋彦次郎だかが新しい鉱脈を発見し、金山奉行として茂住鉱山などを経営したと。。

1600年頃の江戸時代に入ってからは幕府代官直轄の鉱山になり、民間の山師によって採掘が続けられてきたらしいですが、段々と金が採れなくなり衰退気味になると。。

その後の1874年だかに鉱工業に進出してきた三井財閥の三井組が経営権を取得してきて、1886年には鉱床群を全て取得し、神岡鉱山に統一して、近代化が著しくなると。。

そして20世紀の初め頃から亜鉛製錬ができるようになり、鉄の防錆などに使われ、装甲板や薬莢に必要な亜鉛は、日露戦争を機に軍事に、そして近代化を歩む日本において需要が拡大すると。。

そんな中で神岡鉱山は、日本最大の鉱山として近代的採鉱法を導入し、世界でもトップレベルの高能率鉱山として運営されたと。。

しかしその後、オイルショック、円高、安価な外資参入、鉱山の枯渇、人件費高、電気料金高、公害問題、などで日本の鉱山は衰退していくと。。

そして2001年には神岡鉱山も精錬工場を残して閉山し、鉱石の採掘を中止すると。。

現在は金属の加工や精錬にも高い技術や設備を持っているため精錬所はまだ稼動していまして、輸入鉱石の製錬、廃棄バッテリからの鉛リサイクル、硫酸の処理等の業務が行われていて鉱山跡を管理されていると。。

言われてみればこの神岡鉱山は、2000年代に入った辺りに訪れた廃墟ブームをきっかけに、巨大鉱山跡として僕も耳にしたものだと想いましたよ。。

アクセスが微妙に難点でしたし、廃墟探索を軸としてはいなかった事も有りまして未訪でしたけれどね。。

まあそんな事はすっかりと忘れて、この時はGattann Go !! に向けて眠気混じりに運転していましたね。。

県道75号線からまた国道41号線に繋がり、船津北のT字路を右折して国道471号線となり、橋を渡って右折して高原川沿いを進みますと。。

そんな事で高原川とは。。

北アルプスの乗鞍岳辺りが大滝川を創り、安房谷を合わせて平湯川が合流して高原川と名を変えて北流すると。。

蒲田川・双六谷・跡津川などの多くの支流と合流しながら神岡町の中心部を北西部に流れると。。

神岡町の北端であります中山地区で宮川と合流して、神通川と名前を変えて富山湾に注いで行くと。。

大いなる流れですな。。

この辺りは旧神岡町において人口の7割りを占める船津地区となるみたいですかね。。

街は、四方を山に囲まれたすり鉢状の地形の底辺の限られた平地に高度に密集していますと。。

市街地には高原川の支流となります山田川、吉田川も流れていると言う事で、水は豊富なんでしょうね。。

今考えますと、このT字路のすぐ横にGattann Go !! の折り返し地点となる旧神岡鉄道の終点である「奥飛騨温泉口駅」が在ったんですな。。

神岡町の人口は鉱山の発展と共に有り、最盛期の1960年辺りには人口が27000人強となりましたが、その後の鉱山閉鎖までの間に、1978年の合理化計画では16000人、現在では約9000人と人口を減らしておりますね。。

2015年の国勢調査で飛騨市の人口は24708人となり合併前の30421人よりかなり減少していると。。

そう考えますと、1960年当時の神岡町の人口は今の合併した飛騨市よりも多かった訳で、このような山間部の町としては凄い人口だったんでしょうね。。

考えましたら、レトロな町並みと言う事ですが、飛騨地方と言いましても「白川郷」や「高山の古い町並み」と言う江戸時代やそれ以前からのような景観では無くて、昭和のコンパクトシティとしての貴重さが有るのかも知れませんね。。

このまま遺して行けば、いつかくるかも知れませんね。。

進むとあと3kmの看板が有りましたね。。

後ろには偶然にも ,三井金属鉱業から独立分離した 神岡鉱業亜鉛製錬所が写っていましたな。。

企業再建整備法により1950年に三井鉱山の金属部門として神岡鉱業株式会社設立し三井金属より分離・独立と。。

人口などは減りましたが、神岡町は40%以上が製造業であり、当たり前ですが、神岡鉱山からの歴史が今もベースなんでしょうね。。

そうしたら「道の駅 宙(スカイ)ドーム 神岡」なる、山間部の町には似つかわしく無い名称の道の駅が有りますな。。

しかしこれは僕も既知で有りましたよ。。

神岡鉱山の茂住坑に、神岡宇宙素粒子研究施設(東京大学宇宙線研究所)と言う施設に、地底1000メートルに建設されたニュートリノ(中性微子)観測装置スーパーカミオカンデが在ると。。

なんでも宇宙から飛来してくるニュートリノと呼ばれる素粒子を観測する施設であり,ほかの宇宙線の影響を避けるために旧坑道を利用して地下約1000mの深さに巨大な水槽を設置し,その中に感知器を備えたものであると。。

1983年にカミオガンデが造られて、今は1996年に新設されたスーパーカミオガンデに引き継がれていると。。

小柴昌俊教授やら、梶田隆章教授やらというお2人のノーベル賞受賞者を輩出したりしていると。。

これに関しましては、スーパーカミオガンデを中心に神岡鉱山の坑内を巡るツアーイベント「GEO SPACE ADVENTURE」が有った事は僕も知っていましたが、年に1回だか何回だかで、抽選ですし、繁忙期に休めない僕は諦めていましたけれどね。。

しかしなんでも他に、 ブラックホールの解明などをめざした人類初となる重力波の直接観測であるKAGRA計画(大型低温重力波望遠鏡計画) なるものが更に鉱山を掘って、地下200mに直径80cm長さ3kmの真空ダクトを設置して行われているてと。。

更に更に。。

栃洞坑に米サン・マイクロシステムズなど国内外のIT関連11社が、地表から100メートルの地下空間に企業や政府からの情報システムの運営を受託するデータセンターを設置すると提唱したと。。

約450億円が投入される第1期工事だけでも固定資産税は約8億円ともいわれていると。。

耐震性や堅牢性、隔離性、豊富な地下水、温度、そうした日本1強固な岩盤に覆われている巨大な地底空間を利用するプロジェクトでありますと。。

採掘権を持つ三井金属鉱業や、都市開発事業を手がける森トラスト、プラネット社などがプロジェクト推進委員会を発足したと。。

地震やテロなど、 非常時に対応する危機管理が国家的問題となる中で、同市が国に先駆けて民間活力を主導にして立ち上げた「地底首都構想」なるものが各界の注目を集めていると。。

データセンター誘致は、飛騨市が国の地域再生計画の認定を受けて取り組む企業誘致の一環であり、その最大、最強のプロジェクトとして将来的には政府機能、自治体機能も取り込んだ、情報の地下都市を目指したいと。。

三井グループは、この三井グループ三大事業である三井銀行、三井産業、三井鉱業の1つの発祥の地である神岡鉱山の屍を、その巨大な特別空間故の誘致事業に再利用と言う事なんでしょうかね。。

一観すると長閑な神岡町の地下には壮大なプロジェクトが進行していると言う事ですかね。。

まあ元々、鉱山自体が壮大なものだったからですけれどね。。

そんな事で進んで行きましたら、高原川を渡る橋のギリギリにGattann Go !! の駐車場の入口らしきものが有りまして、入って行きましたね。。

入口を入ったら先ずは富山県の立山の砂防工事現場で作業員を運んだ立山砂防軌道の北陸重機工業製5tディーゼル機関車が展示されていて目立っていましたね。。

なんでも2016年6月16日よりこの車輌以外にも神岡鉱山で実際に使用された機関車などの車輌を保存展示する施設「神岡トロッ庫」が完成し公開を始めたらしいですね。

とりあえず向かって右に進み広い駐車場に何となく駐車しましたら、目の前がGattann Go!! の乗り場みたいな感じでしたかね。。

まあ色んな種類のマウンテンバイクを1時間に1度の間隔で出発させてますが、それだけなら駐車場は余裕がかなり有りそうでしたかね。。

しかし旧神岡鉄道のディーゼル車「おくひだ1号」を1日限りで復活運転させるイベントとかが有るみたいですし、鉄道ファンが沢山集まったりするんでしょうから、駐車場は広いにこした事はないんでしょうね。。

僕は電車などには疎いので、このGattann Go!! の企画がなければ知りませんでしたが、旧神岡鉄道神岡線はJR東海とJR西日本の境界駅となります高山本線の猪谷駅を起点に、飛騨中山駅、茂住駅 、漆山駅、神岡鉱山前駅、飛騨神岡駅、神岡大橋駅と経由して終点の奥飛騨温泉口駅を結ぶ全8駅19.9kmの路線となりますと。。

その路線の奥飛騨温泉口駅から神岡鉱山前駅までの約2.9kmを往復するのがGattann Go !! のコースとなるのですな。。

旧神岡鉄道神岡線で旅客車両として運行していたのは「おくひだ1号」と「おくひだ2号」の2両となりますが、「おくひだ1号」が廃線跡に展示されているのが観えましたね。。

2002年に新築された1階建ての木造建築らしかった駅舎の正面入口から、受付を済ませようと中に入りましたね。。

駅舎内には神岡鉄道本社が有り、旅行センターも営業していたらしいと。。

また隣接した場所に最初の駅舎が現在も残っていて、「喫茶店あすなろ」が長いこと営業されているらしいですが、この時は車を駐車した線路の反対側には全く行かずに知りもしなかったですね。。

なんでも国鉄時代の路線の距離が20.3キロメートルに対して神岡鉄道神岡線は19.9kmとなりますが、1984年以前の国鉄時代は2代目駅舎から南へ400メートル、ディーゼル機関車が保存されていた位置を含めて線路が延びていたとか。。

そして入口横にはバス停が有りますが、現在も旧奥飛騨温泉口駅前のバス停として濃飛バスの富山~奥飛騨線や吉田線が停車したりするらしいですね。。

しかし気になりましたのは、旧奥飛騨温泉口駅と言う駅名にしては奥飛騨温泉郷まで距離がけっこう離れているのではと言う事ですかね。。

僕の調べでは最手前の栃尾温泉まで約23km有り、最奥の平湯温泉までは約32kmと言う感じで、温泉口と言うには厳しい感じがしましたね。。

近郊に割石温泉とかが在るみたいですが、この辺りは有力な温泉の源泉が少ないと言う感じなんですかね。。

まあでもローカルバスでの情緒ある旅行をするなら良いんでしょうね。。

発車時刻の10分前までに受付をすると言う事だったらしいですが、珍しく予定時間に余裕を持って到着し受付を済ませましたね。。

なんだか旧神岡鉄道神岡線の駅舎をそのまま使っていると言う事なんですが、そんな事で外観同様に内観も素朴な感じがしましたね。。

まあ変に今風にするより良いのは明らかですわ。。

こちらで利用料金を支払いますが、3人で来ましたので2台のマウンテンバイクの真ん中に観覧シートを設置した乗り物で進む観覧シートセット4000円を支払いました。。

記憶に残ってないですが、レールマウンテンバイク参加への同意書もこちらで記述するんですな。。

同意書はインターネットからでも事前に入手できるらしいですが、逆に面倒なので確かこちらでサッサと書きましたね。。

とりあえず出発にはまだ少し時間が有ったのでちょろちょろと施設を見学しましたよ。。

展示室みたいなのが有りますので入らせて頂きました。。

なにやらプラレールやら鉄道模型やら鉱石などが有ったり、沢山の鉄道関係の書籍がならんでいましたね。。

こっち系は全く詳しくないのですが、当時の車輌のヘッドマークや切符やらも展示されていたので、何か観るとノスタルジックな気分になり良かったですね。。

なにかこの地の方達の郷土愛を感じられる施設なのだと僕は想った次第でしたね。。

受付の先に壁は無く、これから出発するレールマウンテンバイクが並んでいましたね。。

この日は平日ですから10時が始発と言う感じでしたかね。。

神岡鉄道は2004年10月15日に貨物輸送を廃止し、2006年12月1日に全線廃止となったらしいですが。。

このGattann Go !! 発足の経緯と致しましては。。

神岡鉄道の廃線が決まった時に、全線保存を目標に有志が集まって、全区間草刈りなどのボランティア活動が始まりましたと。。

それと同時に、遺された旧神岡鉄道の線路やらの鉄道資産は、町のシンボル・地元民のルーツであると言う事で、地元の有志(当時の神岡鉄道協力会)らがそれぞれの持つアイディアを出し合ったと。。

その結果鉄道車両に変わってレールを活用できるアトラクション的なものを新たに作ることはできないかと言う事で、レール上を自転車に走らせるという発想に行き着きましたと。。

自分たちの手で創った乗って楽しい乗り物を走らせる事で、鉄道資産をそのままの形で保存し活用し、そして残された鉄道資産を取り巻く街並みを後世の子供達の世代に語り継いでいきたいと言う想いが有りましたと。。

街の鉄工所にも相談して試行錯誤の結果、現在も採用されている自転車2台を横につなげる方法を考案したと。。

仕組みの一部については特許も取得出来ましたと。。

試作機はポイント部分で脱線することもあり、レールの側で改善を加えるなど、苦心の末に実用化に成功したと。。

ゴールデンウィークに行われた実験走行が珍しい体験とマスコミが取り上げられて、次の夏休みにも実験走行を開催し旅番組やニュースで紹介される度に問い合わせの電話が殺到したりしましたと。。

そんな事で紆余曲折を経てGattann Go !! の運営は、NPO法人神岡町づくりネットワークと言う、観光協会の一事業から独立した団体が運営していくことになりましたと。。

地域住民の想いと技術が一体となって取り組んだこの廃線エコプロジェクトは、沢山の皆様のお力添えを頂きながら、沢山のお客様の笑顔をお迎えすることが出来るようになりましたと。。

いやはや素晴らしいと想いましたよ。。

なんだか観光地によくある記念写真撮影も、手軽な感じでやっていましたね。。

勧められましたよ。。

前からのポーズ1枚なら300円、前後2ポーズなら500円と言う事でしたね。。

勢いて帰りに買ったような買わなかったような忘れましたね。。

駅舎だかの屋根を観上げると、雨避けの下のダクトかなんかの処に鳥が巣を創っていて、何だか微笑ましかったですね。。

スタート5分前に注意事項などの説明が説明ルームで有ると言う事なのですが、まだ時間が有るのでギリギリまでうろちょろしてましたね。。

サイドカー付き(1~2人用 2,500円)がスタート台に現れて、何となく僕にはレトロフューチャーチックに観えて印象に残りましたね。。

料金形態は。。

ベーシックとなるかと想う両線路にマウンテンバイクを1台にずつ乗せて走らす2人乗りの人力と電力のハイブリッド型車両(3,000円)で。。

あとはその中央に木製の観覧シートを設置した3人乗り(4,000円 )、 木製の2階建てシートを設置した4〜5人乗りの組み合わせの2階建てシートセット(4人で5000円、5人で6000円)となり。。

最大3人掛けのベンチ型車両をハイブリッド車で牽引する4〜5名乗り(5,000 〜 6,000円 )、スタッフ専用オートバイで牽引する木製トロッコで最高乗車6人( 6,000円)とかになると。。

他にオプションでチャイルドシート(500円)やらペットゲージ(1000円)やら車いす特等席車両等もあり、これから先も色々と新しい型が出来上がるかも知れませんね。。

生後9か月以上の赤ちゃんから乗車OKで、マウンテンバイクをこぐのは身長140㎝以上で足がペダルに届けば可能で小学生以下は必ず成人の方とペアを組んで乗らなければならないと。。

そう考えますと、1人でサイドカー乗るとか少人数で木製トロッコ動かして貰うとかで無ければ大体1人千円台前半位の料金で済みますから廉価と言えますかね。。

なんだかこれから先も追加車種とか創られそうですかね。。

そして時間が来まして説明ルームでの事前の説明が始まりましたね。。

説明ではコースは旧神岡鉱山前駅からの折り返し約6kmとなり、スタート地点の標高が432mで折り返し地点の標高が402mとなっていて、行きは降りでスイスイいけますが帰りは登りでけっこう疲れると。。

全てが電動ハイブリッド車になっていると。。

コースの途中に駅が2つにトンネル2つ、トンネル内は温度が13~15度で今は夏なので涼しく照明は無く二つ目のトンネルは長いらしいと。。

途中で日本カモシカが現れるかもしれないと。。

前のマウンテンバイクとの車間距離は20m厳守で停車したり降りたりしてはいけないが、手は離してても大丈夫で写真などはいくら撮っても構わないと。。

最初にスタッフがサドルの高さ調節をするらしいと。。

ライトは全車がトンネルてま自動的にONになるようになっていると。

冗談を交えながら和やかに話されていましたがそんなところでしたかね。。

要はレールに固定されているのでハンドル操作は必要無いと言う事と、以前は完全人力タイプのマウンテンバイクも有ったが今は全車ハイブリッド化していると言う事ですかね。。

香港のテレビ局の取材をきっかけに外国人客も増加しているという話ですが、やはり中国か韓国辺りの観光客さんも何組かいましたね。。

ヘルメットが置いてあったので、ここで付ける必要は無さそうですが、僕も含めてみんなすぐに装着してましたね。。

そしてスタート台に用意されたたぶん予約分のマウンテンバイクに皆で一斉に乗り込む感じですね。。

たぶん旧奥飛騨温泉口のホームと同じ高さに増設された木製のスタート台は開業当初は無かったかと想われますね。。

説明する時は以前は映像なども使ったりしているように見受けられましたが、それはなくしたと。。

完全人力車を廃止したのは、予想以上に疲れて脱落者が出て予約営業に影響したりとか色々有ったのかも知れませんね。。

まあ開業されてから営業してみて色々と営業の効率化が計られているのでしょうかね。。

乗り物の仕組みは至ってシンプルで、地元で制作されたオリジナルのガイドローラー付きメタルフレームに、2台のマウンテンバイクをがっちり固定し、後輪タイヤが直接レールの上に接地しているので、ペダルをこぐと前進し、モーターがペダルを漕ぐ力を補助して快適に走行できるものだと。。

ペットボトルのホルダーもハンドルの真ん中に設置されているので、なんだかコーラを買って置きましたね。。

電動アシストのモードが有りますが、パワーモードとか自分で押したかは忘れましたね。。

一番気になったのは、実はスポーツシューズとか忘れてて僕だけ革靴だったんですが、スタッフの方に聞いたら大丈夫だと言う事で何とかなりましたね。。

ここはやはりそれに合う靴をせめて履かないといけなかったと反省しましたね。。

駅の手前の単線から複線に切り替えるためのポイントレールの辺りに記念写真を撮影するスタッフの方がいて、前に出発した組の方が写真を撮り終えて進みだした辺りで、次の組がスタートする感じでしたかね。。

ホームと同じ高さのスタート台のレールからスロープのレールを使って通常のレールに降りて進みますね。。

何だかこのスロープを降るスタートはドキドキしますね。。

こちら旧奥飛騨温泉口駅は、単式ホーム1面1線と留置線を有する地上駅であったらしいと(夜間滞泊はなしで神岡鉱山前駅まで回送で戻っていた)。。

かつては島式ホーム1面2線を有していたらしいですが、末期には一部が埋め立てられて片側のみが使われたらしいと。。

無人駅でしたが駅舎には自動券売機が一台設置されていて、神岡鉄道では神岡鉱山前駅と並び乗車券の購入できるただ2つの駅となっていたらしいと。。

こちらは国鉄神岡線として1966年10月6日に開業した全線単線非電化のローカル線でありまして、国鉄時代は神岡駅と言う駅名でありましたと。。

神岡線は旧国鉄の第1次特定地方交通線に指定されたため、1984年に三井金属や岐阜県が出資する神岡鉄道によって第三セクター線に転換されて存続しましたが、前述の通 り2006年12月1日に全線廃止されましたと。。

駅は旧阿曽布村の中心地に近い場所であったらしいと。。

神岡鉄道には猪谷駅を除く7駅には七福神の木彫り人形が祠に祭られていて奥飛騨温泉口駅は布袋さんだったらしいですが、 今は祠だけ残ってるとか、展示室に木彫り人形は展示してるとか言う話ですけど、この時は全く気にして無かったので僕は分からないですね。。

そんなんでスロープを降りて行きましたが、けっこうスムーズに降りて進んで行ったような気がしましたね。。

記念写真を撮るポイントに着いて前後2ポーズの写真を撮る場所で予定通りに写真を撮りましたね。。

なんでもこちらは鉱山の街ですから、 1966年に国鉄神岡線が開業する前からこの地には鉄道は敷かれていたらしいですな。。

神岡鉱山の経営に三井財閥系の三井鉱山があたるようになってからの1910年に、まずは一文字地名の土(ど)から茂住付近の杉山までの5km軌間430mmだか480mmだかの馬車鉄道の運行が始まったらしいと。。

その後のには三井鉱山神岡出張所の所長であった西村小次郎が個人名義で敷設免許を取得して、 笹津 – 杉山間そして杉山 – 鹿間間と改軌と軌道強化を実施しながら1920年までに順次路線を延伸し開業していくと。。

そんなんでこの軌道は、富山軽便鉄道(後の富山鉄道、1914年開業・1933年廃止)が通じていた神通川扇状地の笹津駅前から神通川と高原川の河流に沿うようにして神岡に至る38.8kmの軌間762mm路線になったらしいと。。

その後に鉱石の輸送のみでなく、周辺町村の物資輸送のための軌道の改修や市街地への乗り入れ工事を行った後の1922年に神岡軌道株式会社を設立し、1923年に西村小次郎が経営する神岡軌道に路線を譲渡し、同時に軌道法に基づく軌道線となったらしいと。。

1927年には神岡軌道を三井鉱山に譲渡、その後事業主体は何度か変り、そのつど名前も変りましたが、最後は三井金属鉱業神岡鉄道となったようですと。。

1928年にはロコ(ガソリン機関車)による軌道全線(軌間が610ミリ)の動力化が完成し馬車鉄道はなくなると。。

そしてその後には現在の高山本線の元となる鉄道省飛越線の工事が進展し、それに伴い並行区間となる笹津 – 猪谷間の軌道を撤去するとともに、猪谷駅に直接繋げる為に神通川に鉄橋(水面からの高さ57m、全長294m)を架橋させ高山本線開通の1931年に乗り入れるようになると。。

これに前後して運営が神岡水電に移管され、また坑道内の軌間と統一した方が輸送に都合よいという事情もあり、610mmへの改軌が実施されてたらしいですが、最初から610mmだったとか言う話も有るからよく分かりませんね。。

どうも神岡軌道は市街輸送線としての性格やら色々あって、市街地に支線や多くの駅を持っていたり、森林鉄道と接続する貨物専用線として鹿間-浅井田間8.2kmなんかにも路線が在り1937年から1958年まで利用されていたらしいですが、同時には存在しなかった区間も総て合わせれば約50km近い路線網が在ったとかで詳しくは調べてられませんかね。。

1949年には神岡鉄道として旅客輸送も開始し、2往復ダイヤで運転されて、猪谷~神岡町の23.9kmを、神通川の支流高原川に沿って2時間かけて走っていたと。。

けっきょくメインルートはこちらですね。。

法的な種別は、専用鉄道から軌道法による軌道、地方鉄道法による地方鉄道と推移して最終的には市販の時刻表にも載るようになったらしいと。。

その後に川を挟んだ対岸に国鉄神岡線の敷設計画が持ち上がり、軌道を運営する三井金属工業ではこれを機に軌道の撤去を決定、1962年に旅客輸送を廃止し、1966年10月の神岡線開業に先駆けて9月に茂住~ 東町(神岡町)間の軌道を撤去、残存する猪谷 ~ 茂住間も1967年3月に廃線となり全線廃線となったらしいと。。

なんだか今もこの地に橋やトンネルやらも遺した廃線跡が在る感じですかね。。

そんなんで記念写真を撮って進んで行きましたね。。

スタートしてからは右には樹林を隔てて高原川の渓谷がチラチラと観降ろせて、左は県道477号線のコンクリートの壁と言った感じでしたかね。。

確かに電車が徐行して走る時のようなガッタンゴットンと言う音がよく聴こえたような気がしましたが、最初はとりあえず順調に走る事だけを考えていたのでよく覚えてませんね。。

線路は微妙にワインディングしている感じでした。。

そんな事でレールマウンテンバイクを走らせて行きましたが、こちらの路線は1966年10月6日に神岡町民の悲願であった国鉄神岡線の運行がスタートするところが始まりであったらしいですね。。

もともと1922年制定の改正鉄道敷設法別表では富山県猪谷から岐阜県船津に至る鉄道が掲げられたらしいですが、三井鉱山鉄道の馬車軌道が鉄道法による一般営業を1923年から始めたこともあて鉄道建設運動はとりあえず下火になったらしいと。。

1936年に高山本線が全通すると鉄道建設の気運が高まり、猪谷~松本間鉄道同盟が結成されたりもしたらしいですから、こちらの地元の鉄道敷設の意欲は強かったのでしょうね。。

そしてこちらでは戦後の1949年に信飛鉄道促進期成同盟会が結成されて、 猪谷~松本間鉄道建設に向けての運動がまた活発に行われ続け、1953年には国鉄神岡線促進同盟会へと名称を変更し引き続き敷設運動を続けた結果、 鉄道建設審議会は1956年に神岡線建設を決定する事になり1959年に着工する事になったらしいと。。

工事従事者数は約70万人、殉職者数4人、総工費46億円という大変な工事の末に5年後となる1964年に工事は完了したらしいと。

当時の神岡線の距離数は前述とおり全長20.3
Kmあり、山岳地を走るため急激な勾配が多い為に数にして14、距離にして11.4kmがトンネルであり 、全線の64%がトンネルと
橋梁になっている為に奥飛騨の地下鉄とも呼ばれていたらしいと。。

1966年9月30日には神岡鉱山への専用線も敷設され1週間後の10月6日に運行スタートとなりましたと。。

当時は隣町であった古川町まで延伸して高山本線と接続する計画もありましたが立ち消えとなり、神岡線は全線単線非電化のローカル盲腸線として運行されていく事となりましたと。。

この時に誕生した駅は飛騨中山、茂住、西漆山、神岡口、飛騨船津、神岡となり、高山本線に接続する猪谷を入れて7つの駅が出来上がると。。

開通を記念して作られた神岡線開通讃歌と言う歌まで有ったそうですね。。

なんだか歴史を感じ住んでもないのに郷愁に浸るような気分で進んで行くところですかね。。

左に緩く曲がったら今度は右に緩く曲がって進んで行きますと。。

県道477号線はアップダウンしていて車道と高低差が少なくなり車と並走するような感じの所も有りましたかね。。

なんだか高原川側には遊歩道みたいなのが有ったような気がしましたね。。

先程の話の続きですが。。

神岡軌道に替わる国鉄神岡線もおのずと神岡鉱山に依存する形となりまして、当初こそ神岡鉱山の鉱石輸送を中心に1日4往復の貨物列車が運転されて賑わっていましたが、 既に鉱山の採掘は下降線をたどっていた事と、その後硫酸を除く鉱石輸送がトラックに移ると貨物列車の運行は1日1往復に落ち込んでしまい増加の見込みは無い状態になってしまったらしいと。。

神岡鉱山は亜鉛を産出する鉱山で、鉱山に併設されている精錬所で精製、金属塊として加工したのちに出荷していましたが、鉄道貨物では精錬過程で必要な危険物の濃硫酸の安定輸送が主たるものとなっていましたと。。

鉱山の採掘量が減ったりしても輸入鉱石を含めた亜鉛や鉛などの精錬加工と副産物として生産される濃硫酸の搬出を約50km離れた富山港まで輸送するのは行われ続けた感じなんですかね。。

けっきょく2001年に神岡鉱山は閉山しましたが、前述しましたが今もこちらで全国の廃バッテリーの約3分の1を原料とする鉛リサイクル製錬や、海外鉱を原料とする亜鉛製錬は行っているらしいですし、カミオガンデやら色々と使い道は有るもんなんですね。。

とりあえず国鉄時代は旅客輸送も極めて少なく、末期の平均輸送密度は445/Km日でしかなく、 過疎地であり猪谷から神岡町まで入るまでの区間は峻険な奥飛騨の渓谷沿いを行く為に旅客数が元々見込めなかったということもありましたと。。

そして世間のモータリゼーション化の進行も含めた並行する国道41号線が整備された事による貨物輸送のトラックへの転換もあり、1981年9月18日には赤字ローカル線の中でも特に際立って経営状態の悪い廃線対象線区を意味する第1次特定地方交通線に指定されて1984年9月30日に国鉄神岡線は廃止になると。。

そんな事はマウンテンバイクで進み続ける時には考えてなく、スムーズに進んで行きましたね。。

晴天で気持ち良かったのを覚えていますね。。

進んで行くと、高原川に架かる神岡大橋がよく観えて来ますね。。

橋脚や欄干の赤さが映えてましたかね。。

高原川の流れも観えたりして、この辺りの景観はなかなかで覚えてますね。。

県道477号線のガード下を潜ると言ったような短いトンネルが有りましたね。。

とりあえずこういったトンネルみたいなのは、マウンテンバイクで進む上では楽しくなるなと想いましたね。。

そしてまた先程の話の続きですが。。

国鉄神岡線は廃止になりましたがすぐさま翌日 の1984年10月1日に 三井金属工業51.0% 富山県、岐阜県の県が25.5% 神岡町の他1町2村の町村が23.5%出資するのを主とした第三セクター線に転換されて存続を続ける事になったらしいと。。

理由としては硫酸輸送は年間10万トンにもおよびこれをトラックで輸送するのは困難であり危険性が拭えなかったと言う事や、並行する国道41号線などの主要道路が豪雪の為に閉鎖される中、全線6割をトンネルによって囲まれている神岡線は運休することなく走り続け、生活物資の輸送などに役立った事などがあったらしいと。。

けっきょくは51%を保有する筆頭株主であります三井金属鉱業神岡事業所の貨物輸送を担っていたからであり、貨物輸送は神岡鉄道の売上の7~8割を占めていたらしい事からくる存続と言えたかと。。

国鉄から転換の第3セクター鉄道では三陸鉄道に次いで2番目だったらしいと。。

ところが、前述通り神岡鉱山の亜鉛採掘も2001年に操業を停止し、三井金属鉱業も精錬技術を利用した亜鉛のリサイクルなどを行う方面に向かい、そのため貨物需要はめっきりと減り、ついに収入の大部分を占めていた貨物輸送が2005年3月31日でトラック輸送に切り替えられて廃止され、収益面で神岡鉄道存続のカギを握っていたこの貨物輸送が伸びが見られない上に、濃硫酸を輸送するタンク車の老朽化が進み、更新もままならないと言う事で、ついに輸送を断念し2004年10月15日に終了してしまうと。。

やはりもともと神岡鉄道における旅客輸送需要は極めて低く、近年の少子高齢化・過疎化も加わって輸送密度 は国鉄から移管された1984年は394人/日 、85年が265人/日 、86年が239人/日 、87年が194人/日 という具合に落ちていったと。。

2004年度には1日の平均利用者数が100人を下回っていて定期購入者は富山県の高校に通う女子高生1人だったとかで、神岡鉄道は約7000万円の赤字を計上していたとか。。

神岡鉄道はお化け列車などのイベント列車を催すなど努力を試みましたが、乗客増にはつながらなかったようだと。。

そして旧国鉄からの転換交付金も底をついてしまった為に、名鉄岐阜市内線の継承の意向を持っている仏コネックス社や、旅行企画や代理店業務のトラベルプランニングオフィス社などが運営や経営の参加意志を示しましたが、交渉は立ち消え状態となって、2006年12月1日に全線廃線となってしまったらしいと。。

かくして鉄道としては短いですが、約40年余の神岡鉄道の歴史は幕を閉じたらしいと。。

このガッタンゴットンと鳴るレールにはその歴史が刻まれていると想いながら走り続けた訳ではこの時はありませんでしたが、今振り返ればそうだったのかと想いましたね。。

県道477号線のガード下を潜ると旧神岡大橋駅が突然在る感じでしたかね。。

神岡大橋を渡った対岸に市街地が広がっている感じですかね。。

どうも1984年10月1日に、その住民の方達の要望などにより新たに設置された駅で、神岡線の駅の中では全通後に新設された唯一の駅だと言う事で駅前にはバス停も設置されていたらしいですね。。

駅の近くに有る赤いキノコ型の公衆トイレが印象深い感じですかね。。

この駅に祀られてる七福神は弁財天でしたが、観ると祠にはちゃんと弁財天様が置かれているようですね。。

各駅の七福神の有無はよく僕には分かりませんね。。

駅の反対側には神岡鉱山内で使われていたような小振りな車両が展示と言うか残置されているように置かれていましたね。。

旧神岡大橋駅構造は単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。無人駅で駅舎はなく、駅の設備はホームとその上にある待合所のみとなっていたと言う事ですが、有人駅はタブレットの交換が行われる神岡鉱山前駅だけと言う事らしいですからね。。

スタートの旧奥飛騨温泉口駅から旧神岡大橋駅までの距離は約800mとなりますが、Gattann Go !! の走る折り返し地点の旧神岡鉱山前駅までの約2.9kmの区間に4駅が在り、この区間は市街地に沿うので駅間が短いですね。。

この区間は比較的トンネルも少なく街や河川や山並みの景色も観渡せたりして良いのでしょうね。。

旧神岡大橋駅を過ぎた先には高原川支流の吉田川が流れていて勢いよく水が流れ印象に残りましたね。。

古くなった堰堤の直下でコンクリートがびっしりと言うところでしたが、晴れてるし爽やかには感じましたかね。。

吉田川を橋で越えて進んで行きましたね。。

その先は、今度は右側に移った県道477号線沿いの家屋やらの並ぶ横を進んで行く感じでしたかね。。

なんだか少し高い位置から家屋を観下ろしながら進む景観も新鮮でしたかね。。

左側は深林と言う感じでしたかね。。

進んで行くと本格的なトンネルが観えて来ますね。。

トンネルとはあの事かと想いましたよ。。

観えなかったですが、トンネルの上には神岡小学校なんかが有るみたいですかね。。

この辺りは高原川から少し離れて行きましたが、神岡大橋から下流の藤波橋までの500mに藤波八丁遊歩道とかが有るらしいですから、歩いてみれば良かったですかね。。

神岡大橋も国鉄神岡線の開業と同じ1966年に架けられた橋らしいですね。。

とりあえずトンネルが近付いて来てドキドキするところですかね。。

トンネルに入ると確かに寒かったですね。。

でも晴天の中でクールダウンするには良いのかも知れませんね。。

ライトは勝手に点くんだったか忘れましたが、とりあえずライトが点いても真っ暗な趣きでしたかね。。

怖がる人もいるかも知れませんが、レールマウンテンバイクのコースとして走るのは楽しいとは想いましたね。。

こちらは最初の長いトンネルは、第二神岡トンネルとなりまして、長さは352m有るらしいと。。

しかしけっこう直線ですから、出口が観える感じで安心感は有りましたかね。。

フラッシュ使って写真撮ったから明るく写りましたが、やっぱりけっこう真っ暗でしたね。。

まあでもこれくらいのトンネルならまだちょうど良いくらいなんでしょうかね。。

こちらGattann Go !! のコースを過ぎた旧神岡鉱山前駅を過ぎると高原川沿いの山間部に完全に突入して国道41号線と共に進んでトンネルと高原川を渡る橋梁が連続する本格的な山岳路線となるらしいと。。

次の駅となる旧神岡鉱山前駅~旧漆山駅間は7.5kmもあるらしいと言う事で、残りの旧漆山駅~ 旧茂住駅が4.2km、旧茂住駅~ 旧飛騨中山駅が2.9km、旧飛騨中山駅~ 旧猪谷が2.3kmと言う事ですね。。

橋を省くと60%がトンネルと言う事で、折り返し地点の旧神岡鉱山口駅の先には長い旧割石トンネル2,677mが待ってるらしいですな。。

しかし神岡鉄道最長の長さを誇るトンネルは旧漆山駅と旧茂住駅の間に有る旧茂住トンネル3,300mになりますと。。

そしてトンネルが占める割合が高いのは、旧茂住駅~旧飛騨中山駅間で2.9kmの区間の大半を旧第四中山トンネル1,900mと旧第三中山トンネル290mが占めているらしいと。。

その後も旧猪谷トンネル758mやら、高山本線の城ヶ山トンネルと並んで口を開けている旧新城ヶ山トンネル832mなどが有りますと。。

この辺りは途中で渓谷美もチラホラ観えるらしいですが、トンネルだらけでやはり景観とかはいまいちなんでしょうかね。。

トンネルの出口に差し掛かると、一気に明るくなる感じがさしましたが、直線の先にまたトンネルが口を開けて観えましたかね。。

しかしこのトンネルとトンネルの間は鉄橋となり、その中ほどに旧飛騨神岡駅という高架駅が在りましたと。。

この時は余りよくルートを調べて無いので何も考えずにマウンテンバイクを進めてましたけれどね。。

トンネルを抜けると全長119.84mの神岡鉄橋となると言う事でしたね。。

先のトンネルは第一神岡トンネル524mとなりますが、先のトンネル側に旧飛騨神岡駅は在る感じでしたかね。。

其れなりに高さも有ったと想いますが、敷石やら柵もしっかりしている感じだから高さからくる怖さとかは無い感じですかね。。

何かトンネル~高架~トンネルのこの辺りがこのコースのハイライトなのかとも僕には想えましたかね。。

トンネルとトンネルの間の鉄橋の上に片面ホームの在る高架駅となっている飛騨神岡駅を走り去る感じになりましたが、国鉄時代は飛騨船津駅と言う名称であったらしいですね。。

この駅は旧神岡町中心街や旧町役場の最寄り駅となり、
神岡町で最も賑わっていた駅でありましたと。

ホームの猪谷方の端から階段を降りたところに駅舎が在りまして、駅舎は更に階段を降りた先が地上となるコンクリート造り一階建てで、内部には待合所やトイレの他に駅事務室部分を改装した美容室がありましたと。。

美容室とは同業の者として気になりましたが、観る術は無かったですかね。。

この駅のホームには例の七福神では恵比寿さんが祀られていたらしいですが、写真を観ると祠に存在するのが確認出来ますね。。

Gattann Go !! を営業するにあたって七福神を置きなおしたと言う事なんですかね?

なんだか七福神のスタンプとかも有ったらしいですが、それは復活とか今は無い感じなんですかね?

この鉄橋は高原川の支流山田川と旧国道41号線を跨いでいて、下には岐阜県の名水50選に選定された船津大洞湧水群の一つである幸土泉水という湧き水が湧いているらしいと。。

ホームからは神岡の中心街を一望できると言う事で、眼下には神岡の街が観渡せたと想いますし、写真も撮ってるんだから観たと想いますが、マウンテンバイクの操縦と言うか漕ぐ方に気を取られてあまり観てなかったような気がして心残りでしたかね。。

そんな事で、開けた神岡鉄橋から第二トンネルより長い全長524mの神岡第1トンネルに入って行きましたね。。

暖かい鉄橋の上からまた寒いトンネルの中に入って行く感じでしたね。。

こちらの上には並走する国道41号線が走っているだけで山裾を貫いたトンネルと言った感じですかね。。

このトンネルは中で→にカーヴしていると言う事で、出口の灯りがまるで観えない状態になり、何だかとても長く感じますね。。

途中は正に真っ暗と言う感じで、煤けたトンネルは何やら音が木霊するし、出口の観えない不安を煽るのかも知れず、楽しいところでしたかね。。

カメラのフラッシュ炊かないとこんな感じでしたが、ISO感度上げてるからレールマウンテンバイクのライトが明るく観える感じで、通った時はもっと暗かったと想いましたかね。。

レールは確かに右に曲がってるところですかね。。

出口はまだか。。

と言う感じで進んで行きまして、やっと光が観えて安心する感じでしたかね。。

いや少し大袈裟かも知れませんがね。。

そしてトンネルの出口に辿り着けば電線やらは有りますが爽やかな山並みと青空が。。

何か解放感が有りましたかね。。

レールは左に緩やかに曲がり、先の右側には並んで走る国道41号線が観えますかね。。

鉄道信号機の跡なんかも残ってる感じですね。。

折り返しやゴール迄の距離表示なんかも丁寧に設置されてましたし、観落とさなければ色々他にも有ったんでしょうね。。

進んで行くとまた街かと想いきや、高原川の対岸に観えるのは神岡鉱業の製錬工場やらの施設と北陸電力東町発電所の施設なんかでしたね。。

街の外れの工業地域と言った感じですかね。。

考えれば国道41号線を高山本線方面から進んで来て、旧神岡鉱山前駅と工場や発電所の間に在る船津橋を渡って車でこちらに来たんだから何か観た施設だなとは想いましたね。。

しかしこうして観るとまた違うもんなんでしょうね。。

進むと横に機関庫だかが有りまして、先で引き込み線やらポイントで僕には複雑に分岐してる感じに観えましたね。。

機関庫だかは、営業していた頃なんかはラッセル車とかを置いてる感じがしましたが、この時は空でしたかね。。

ポイントで切り替えられて、右の側線となるレールを進んで行く事になりましたかね。。

ポイントを通過するのは、地味そうで重要な正にポイントだと想いましたかね。。

本線を逸れて行く感じが、線路を走っているんだと言う事を強く意識出来ましたかね。。

進むと更にポイントが有りまして、一番外側の線路を進んで行く事になりますね。。

折り返し地点となる旧神岡鉱山前駅に着くと言う感じですね。。

試作機はポイント部分で脱線する事も有ったとか、ポイントは減速厳守しないと脱線のおそれがあると注意が有ったとか見受けられますが、何も考えないで通過して楽しんだような記憶が有りますね。。

何だかんだで旧神岡鉱山前駅には線路が5本有ったように観えましたが。。

貨物専用線を経由して高原川対岸の神岡鉱山から貨物を運び出す拠点駅でしたから、レールマウンテンバイクでポイントを通過して走ってる線路を含む外側の2本は神岡鉱山からの貨物線として使われていた線路と言う事ですかね。。

対岸の神岡鉱山に渡る橋なんかは撤去されたと言う事なんですね。。

そして国鉄神岡線時代は島式だった駅を、片側を潰して神岡鉄道の車庫兼検修施設を設けて車体洗浄機なども設置されていたと言う事で、駅の反対側の建物はその跡だと言う事ですね。。

旅客車のディーゼルカーKM-100形おくひだ1号、KM-150形おくひだ2号とディーゼル機関車KMDD13形の3両が保管されていたと聞きますが、全くこの時は知らなかったんで観もしなかったですが、こちらの車庫とかに入ってたりした感じなんですよね。。

今回訪れた少し前の2017年4月8日、9日に、ロストラインフェスティバルin神岡やらのイベントが開催されて、動かして旧奥飛騨温泉口駅まで走らせて野外展示したと言う事で、旧奥飛騨温泉口に展示と言うか停まってるように観えたおくひだ1号はそう言う事だったと。。

なんでも市は全国の廃線(ロストライン)を利活用する ロスト・ライン・パーク構想を推進して、 全国の廃線(ロストライン)を利活用する民間団体や自治体に呼び掛け、協議会を発足させているらしいと。。

このフェスティバルの時にシンポジウムを開き、全国で15団体が構想に参加していると言う事で、何か広がって一過性のものではなく発展しそうな感じですかね。。

当初は車庫に保存したままの車両を奥飛騨温泉口駅に展示し、ガッタンゴーの利用促進につなげようという目的だったらしいですが。。

車両をトレーラーで運搬する費用は2000万円以上かかるらしく、線路がつながっているなら走らせればいいと言う事で、車両の修繕や線路の点検などをして走らせたのが始まりだと。。

もともとの廃線時からの地域住民の方達との全線にわたる線路周りの草刈りは前述しましたが、全国募集のマクラギ交換会開催やら、廃線路のウォーキング、高原川はアユと渓流魚のメッカであると言う事での漁協依頼の下による最寄り駅からレールマウンテンバイクとトロッコでの運搬による鉄橋から放流、東日本大震災復興工事支援においての三陸鉄道北リアス線復旧工事作業員の移動手段としてレールマウンテンバイクの貸し出し等々の活動もしたらしいと。。

地元の活性化を目的にスタートした廃線を活用した先進事例として全国から注目を集めて、12年には日本鉄道賞を受賞したらしいと。。

その元となり今も Gattann Go !! を運営しているのが、神岡町の観光協会が発案した神岡町市街地活性化構想により2002年10月に創られたNPO法人神岡・町づくりネットワークと言う事なんですかね。。

神岡鉄道の起点でJR高山本線との連絡駅であり、JR東海とJR西日本との境界駅でもあるJR西日本が管理する猪谷駅以外は総て神岡町の中に駅が在る神岡町の鉄道であると言う、地元の方達の地元愛が有ればこそと言う熱意に感銘するところですね。。

とりあえずそんな事で折り返し地点に着く感じでしたね。。

係りの年輩の方が待ってる感じでした。。

神岡鉄道の運行は全区間を走る列車が一日6往復で、市街地を走る神岡鉱山前駅~奥飛騨温泉口駅のみの運転は3往復となり合計1日9往復でありましたと。。

乗車料金は片道全区間乗車すれば580円で所要時間は時刻表を観ると34分と観ましたが。。

レールマウンテンバイクで走る区間は3往復多く走ってる市街地区間で、この区間の2.9kmの乗車料金は200円でありましたと。。

こちら神岡鉄道の軌道は1067mmらしいですが、 この線路を1日9往復2台の可愛い旅客車を使って神岡鉄道は運営されていたと。。

おくひだ1号なんかを調べますと、座席はセミクロスシートになっていて、席にはテーブルもありますと。。

トイレやテレビも付いていて、受信して何かを流してる訳ではないらしいですが、前方映像なんかを映したりしてたらしいと。。

さらにサロンコーナーと呼ばれる囲炉裏付き席が2ヵ所ありますが、長いトンネルだらけですから炭火などを車内で焚けず、オレンジ色の電球なんかを点けて情緒を出していたらしいと。。

なんだか1度は乗ってみたくなるところでしたね。。

とりあえず何とか折り返し地点に着いて、係りの方に促されるままにレールマウンテンバイクを降りましたかね。。

行きは標高差30mの降りルートとなりますので、確かに楽には感じましたが、初めての体験であったせいか運動不足も有ったのか、其れなりに疲れた気もしましたね。。

沿線は1,300メートルを超える山々に囲まれた急峻な地形で、トンネルだらけで観光には適さないと想われていた神岡鉄道ですが、こうしてレールマウンテンバイクと言う新しいアトラクションとして発想の転換を元に創り変えれば、トンネルなんかも楽しいし良いものだと想いましたよ。。

マスコミが取り上げ、旅番組やニュースで紹介されたりもして、調べますとHIS とかの旅行プランにも組み込まれているから、かなりのものですかね。。

観光協会の一事業から独立してNPO法人神岡町づくりネットワークが運営していくGattann Go !! は、降雪期の運営は無理としても、現在の神岡町の9000人程の人口に対して2012年度の利用者は20000人を越え、2014年度には33000人を越え、2016年度には41,988人にまでになりましたと。。

日本ロストライン協議会の運営の中心だか本部だかが飛騨市に設立されてるとしたら、参加は更に増えるかと想ったりしましたし、廃止路線や引退車両を保存する既存組織としての日本鉄道保存協会とも共存連携の姿勢も見えますし、これは過去のようになくなる事の無い状況に来てるのではと想いましたね。。

降りたら係りの方がレールマウンテンバイクを線路から外して方向転換させたりして、折り返し地点からの再スタートの準備をしていましたね。。

オリジナルのTシャツが目に付きましたかね。。

ここで神岡鉄道の廃線時辺りをを振り返りますと。。

2006年9月に船坂勝美飛騨市長が定例市議会で、神岡線を不定期の観光鉄道として存続させる意向を表明し、その後には過半数株を所持していた三井金属鉱業が、存続に向けて15億円の寄付と軌道の無償譲渡をする事になると。。

三井グループの鉱山事業があったからこその街であり鉄道でしたから、鉱山も閉山し鉄道も使われなくなったから後はこれで市町村で好きにして下さいと。。

15億円を撤去費用として使うのか再開費用として使うのかは問わずに、後は好きにしてくださいという意味だと言う事ですが、地元の方達の神岡鉄道への想いは分かっていたかと想ったりしますし、この金額を見ると十分に責任を取っているようには、僕には見受けられましたけれどね。。

その後、2008年春を目処に不定期の観光鉄道として運行再開させる計画が船坂飛騨市長から打ち出されていましたが、2008年2月の飛騨市長選での敗退し当選した井上久則新市長はローカルマニフェストの意向通り15億円の寄付金は再開に向けての寄付金とは考えておらず、レールや鉄橋は撤去すると表明したらしいと。。

2004年2月1日に 人口3万弱の市が旧国名飛騨国に由来する広域地名を使用する問題も孕みながら、 古川町、神岡町、河合村、宮川村の2町2村が合併し飛騨市となり、神岡町も飛騨市の一部となった訳ですが、ライバル関係にあった旧古川町役場出身の市長に変わった事がマイナスだったプラスだったのかは分かりませんが。。

その間の2007年度にGattann Go !! は地元の有志がの方達が営業を開始して今日に至る訳ですかね。。

たぶん廃線にただローカル線を走らせても赤字続きになり、けっきょく寄付金も底を尽き、営業していた神岡鉄道と同じ運命を辿るところだったかと想われるような感じですし、このGattann Go !! の発想と取り組みは、やはりかなりのもんですかね。。

飛騨市は全国で初めて電子マネー楽天Edy付きの飛騨市ファンクラブ会員証を発行し、買い物をすると自治体へ寄付ができるようにしたり、新海誠監督の長編アニメーション最新作「君の名は」の舞台として 聖地巡礼の波が押し寄せているとかで、まあ岐阜県全体がインバウンドも含めて熱いのかも知れませんね。。

同じ組の方達のレールマウンテンバイクが到着して来て、折り返しからの出発用に並べられていきますな。。

こちら神岡鉱山前駅ですが。。

国鉄時代は神岡口駅と名乗っていたらしいと。。

例の七福神は、僕は全く観てませんが、この駅は大黒天様であったらしいと。。

ホームは築堤の上に位置し、ホームへは入り口を入ってから地下道を通り階段を上って辿り着く構造上は地上駅だったらしいと。。

コンクリートで造られた築堤の壁に木で作った入り口が突き出していて違和感が有るらしいですね。。

駅舎はこの階段を上ってすぐのホーム上に置かれていたらしいですが、駅事務室と待合所は完全に分離されていて、ホームの突き当たりが待合室で中ほどに駅事務室が有ったらしいと。。

通過する列車は当駅でタブレットを交換する必要があり、当駅は神岡鉄道で唯一社員が配置された直営駅となっていて、駅事務室には神岡鉄道の運輸課が置かれており、記念乗車券や定期券はここで販売していたらしいと。。

待合室には猪谷駅と同じ路線図兼運賃表がかかっていて、ダイヤル式のチャンネル切り替えのテレビと漫画、文庫本とストーブや扇風機が置いてあり、男女別の水洗トイレも存在したらしいと。。

国鉄時代は築堤の手前に鉄筋コンクリート平屋建ての駅舎があり、神岡鉄道転換後も本社機能を有していたが、2002年に本社機能を奥飛騨温泉口駅に移転した後、駅舎は撤去されたらしいと。。

神岡鉄道で社員のいる有人駅は、神岡鉱山前と終点の奥飛騨温泉口の2駅だけであり、しかも運行管理をメインとしている為に、有人駅でも切符の販売などの窓口は一切なく、 普通乗車券は待合所の内部に設置された自動券売機で購入するのみとなっていたらしたと。。

これら2駅には食券を買う為の自動販売機を思わせるような自動券売機があるだけとなっていたらしいと。。

しかしこの 集札や改札は行われず、 自動券売機は現在の1000円札や500円玉が一切使えないらしく、旧札が無い場合は駅員さんに申し出て変えてもらう必要があったと言う事ですが、券売機ではJRの高山本線や北陸本線の主要駅の分まで買うことが出来るようになっていましたと。。

時代に沿った券売機を導入する事が出来なかったくらい経営が厳しかったのだと言う話ですが、 勝手になかなか楽しい感じがして、当時に訪れたかったと想ったりしましたね。。

前述通り線内唯一の鉄道貨物輸送の拠点駅であり、 普段使われた部分としては島式ホームの片面1線のみでありますが、列車同士の行き違いは可能であり、複数の留置線や車庫を有していたと。。

そんな事ですが、訪れた時は全く駅には注目しておらず、反対側の神岡の街の景色を眺めているだけでしたかね。。

大した高さではないのに、高層な建物も無いせいか、何だか眺望は良かったですね。。

降りた場所に待機用だかのベンチが有って、近くに眺望ガイドのパネルがあったので、嫌でも景色を観る事になりますかね。。

大洞山の天狗水と言う湧水が湧いていて 夏の時期はきゅうりを浮かべてあり食べ放題だとか聞きますが、この時はどうだったか忘れましたね。。

パネルを観ると、神岡町は高原川への泥流の流下や隆起が繰り返されて創られた河岸段丘の地形の上に在り、傾斜の急な山が迫っている為に、土砂災害の可能性が有り、砂防堰堤群の建設が進められていると言う事を最も訴えるパネルとなってましたかね。。

観光的なものとしては、神岡城だけが紹介されているだけに見受けられましたかね。。

パネルは国土交通省の神通川系砂防事務所と書いて有りますから、砂防についてがメインとなるのでしょうが、パネルの設置なんかは国に費用出させて地域の予算を抑えたのかも知れませんかね?

いや国土交通省が砂防工事の予算とかの事で設置したかったのかも知れませんとか、邪推はしても仕方無いですけどね。。

こうなると神岡城が気になりますが。。

神岡町の周辺は、鎌倉時代から江馬氏と言う豪族が支配していて武田信玄が越中に進出する為の拠点として1564年に神岡城を14代江馬時盛に創らせたらしいと。。

戦国時代の1582年に飛騨分け目の戦いによって、南から勢力を伸ばして来た三木氏のものとなりますが、その3年後に豊臣秀吉の家臣の金森長近に滅ぼされて山田小十朗が城主となると。。

しかし1615年に江戸幕府の命により破却されて、その後は石垣だけが残っていましたが、1970年に三井金属鉱業神岡鉱業所が創業100周年の記念に現在の天守と城壁を再建したらしいと。。

やはり何にしても三井グループの街なんだと言う事ですかね。。

しかしこの時もやっぱり景色だけを漠然と観て、神岡城の事はあまり記憶に無いんですよね。。

なにか向かって右側に広がる神岡の街の景色を観たりしていましたが、よく観ると写真の真ん中辺りに小さく観える感じですかね。。

そんな事で、景色を眺めていましたが、この時は日本最大と言える鉱山跡と言う事で殺伐とした禿げ山や廃墟の印象が事前に有りましたが、ここからの景色や行き帰りに通った道の景色では、そんなに観なかった感じでしたかね。。

緑化対策が行われたり、廃墟も自然に帰したりしているところもあるかと想われますが、山奥の巨大物件は観えない場所だったと言う事ですかね。。

鉱区は、大きくわけて栃洞鉱床と円山鉱床からなる栃洞鉱山と、池ノ山鉱床と南東部鉱床からなる茂住鉱山の2山で構成されているらしいですが。。

スーパーカミオカンデなんかは茂住鉱山の方らしいですが、こちらは栃洞鉱山の地域でありますと。。

栃洞鉱山に在る二十五山の山頂は以前は1,219mあったらしいですが、大きく掘削されて現在は1,153mとなり、66mも削られてしまったらしいと。。

精錬の際の煤煙等の影響が今でも残っていて、周りの山は少し荒れているとか聞きましたが、晴天ですし新緑の季節だからかは分かりませんが、そんな殺伐とした雰囲気は無かったですかね。。

折り返し地点からの出発を皆さん待ちながら、順番に出発して行きますね。。

何となく考え続けますが。。

鉱山は露天掘りもあったけれど、地中深くで再利用されてるように坑内堀りやら深いところが中心と言う事で、表層は緑に帰ってる感じなんですかね。。

こちらは国内で初めて坑道を全て斜坑でつなげたトラックレスマイニング法や、採掘における大型重機等の技術を採用したりした先端技術の鉱山で、環境対策は今は万全なんでしょうけれどね。。

現在はリサイクル事業中心と言う事ですが、工業製品は外形を保つ構造材料と、光や電気を出す機能性材料の2つに大きく分けられ、機能性材料に含まれる鉱物は鉱山で取れる鉱物以上に利用できるらしいんですかね。。

ほんの何十年まで、日本には夥しい数の鉱山が存在していて、鉱山を中心として街ができてたり、鉱石運搬のための道や鉄道や港などが発達したり、多くの人々が全国から集まって働いていたりしましたと。。

しかし戦後の貿易の自由化によって海外の安価な鉱石の流入し、殆んどの鉱山は閉山して言ったらしいと。。

そこに人は居なくなり、施設や鉄道や道は破壊されたり放棄されたり廃止されたり土に帰ったりして、街は衰退したり無くなったりして荒野になったと。。

そうは言っても、鉱山にしろ鉄道にしろ僕は全く詳しくないから厳しいところですけどね。。

折り返し地点から出発して来たルートを逆走して行きますが、また景色が違えて観えて走る意味は有ると想いましたね。。

レールマウンテンバイクを走らせるのに気を取られていたのも有るとは想いますが、帰りの方が景色を良く観れた気がしましたよ。。

鉱山が在れば発電所は付き物での景色も良く観える感じがしましたかね。。

なんかこんな廃小屋が在ったんだなあと進んで行きましたね。。

そして考えますと。。

現代社会は鉱物なしでは成り立たないと言うところですが、鉱山開発は自然破壊そのものでもありますと。。

樹木を伐採し表土を剥ぎ地面を掘り下げ、大量の廃棄物が伴いますと。。

今の日本ではとりあえず顕著には見られなくなりましたが、海外などでは深刻な地域も多数在りそうですかね。。

鉱山やらそれに伴う金属精錬所における鉱物処理の廃水や排煙中に含まれる有毒物質などを川に放流すると甚大な自然破壊を引き起こしますと。。

日本では明治維新以来の120年余に渡る急速な経済成長の中で、深刻な環境問題を経験してきたと。。

とくに大戦後の重化学工業を中心とする高度経済成長の過程での環境破壊は凄まじい勢いで進行し、公害は全国規模で問題となりましたが、その代表となっている四大公害病の1つである、イタイイタイ病が発生したのが、この神岡鉱山の地であったと。。

病名だけ覚えていて、内容は全く覚えておらず、この地を訪れるまでは分かっていませんでしたが。。

小学校の教科書で見てから1度も忘れる事が無いくらい覚えているインパクトの有る覚えやすい公害病が、この地で起こった事であると言うのが、僕にとってのこの地での最大のインパクトになりましたね。。

そして進んで行きます。。

帰りは登りだと言う事ですが、2.9kmで30mの高低差なら大した事は無いと想っていましたが、けっこう往時とは違うものでしたかね。。

後ろとの車間距離を気にしながら必死に漕いだりしたものでしたね。。

ここからイタイイタイ病を考えながらゴールを目指して行くかんじですね。。

患者がそのあまりの痛さに「痛い、痛い」と叫ぶことから「イタイイタイ病」と名付けられた1968年に日本の公害病第1号に認定されたこの疾患とはどの様なものだったのか。。

神通川は、岐阜県北部から富山県中央部を流れる延長120km流域面積2720km2の1級河川でありますと。。

飛騨高地の標高1626mの川上岳に源を発して北流して岐阜県と富山県の境で支流の高原川と合流して富山平野を北流し、富山湾に注ぐと。。

現在はダムや発電所が多いですが、「神が通る川」と言われ清らかで豊かな水に恵まれた神通川でありましたと。。

富山県の神通川流域の農村住民の人達は、 古くからの穀倉地帯として神通川のサケやアユを獲って食べ、神通川の水を農業用水として利用し、水道が普及する1950年代中程までは川の水が生活用水として喉をうるおしていたらしいと。。

この神通川の上流となる高原川流域にイタイイタイ病の原因となる神岡鉱山が在ったと言う事ですね。。

神岡鉱山は16世紀末の慶長年間には茂住銀山として操業開始しまして、江戸時代となる17 世紀には悪水証文が見られて、す
でに水質汚濁による農業被害、飲料水被害があったらしいですね。。

1819年には悪水処理を義務付ける鉱害防止行政も行われていたことが記録されているらしいと。。

なにか江戸時代にすでにイタイイタイ病と考えられる病気があったようだと言う事も聞きますが。。

まだ原因究明やら訴訟など行われる前の時代でよく分からないところですかね?

そんな中で僕はまた先の観えないトンネルを、今度は登りルートで進んで行きましたね。。

18世紀から神岡鉱山では銅や鉛の産出が行われて来たらしいですが、1874年から三井組が神岡鉱山を買収して採掘を開始し、 1889年には経営が三井組に統一されたと。。

日露戦争の最中である1905年 には、それまで夾雑物として廃棄していた亜鉛鉱石の採取を始め、亜鉛生産を開始して、主産物は銀から鉛さらに亜鉛へ移行しましたと。。

1914年の第一次世界大戦で西欧の亜鉛生産が途絶し、それ
により神岡の亜鉛生産が増大したと。。

1927年から亜鉛精錬のための浮遊選鉱法導入により排水中カドミウム濃度が上昇し,戦争とともに亜鉛や鉛の需要が拡大するのに伴って排水も増えて逝くと。。

採掘法はドリルで穴をあけた岩にダイナマイトをつめ爆破させて、砕かれた鉱石は粉末状にして、水を加え泥状にして、鉛、亜鉛を精製していたと。。

そして残った堆積物は水とともにダムに流して沈下させ、その 上澄みを川に流すダム方式といわれる採取法で、これはかつて神通川の氾濫で鉱毒により農作被害を受けた際に造られたものであり、鉱毒被害を防止する為に通産省が認定した方法であったらしいと。。

このダム方式ができるまでは排水はそのまま川に流されていましたが、鉱毒が含まれた上澄みが大雨や台風などで溢れたりしたらしいと。。

1937年の日中戦争の機にも亜鉛や鉛が増産され、1942~1944 年の日本の亜鉛、鉛生産の 6 割は軍需用であり1943年には神岡鉱山は海軍指定工場となったりしたと。。

要はこちらの公害の場合は、亜鉛や銅などの鉱床に高濃度に共存し、 製錬過程において不純物として除去された結果、副産物として生産されるカドミウムと言う元素に問題が有ったと。。

そんな中で、行きより長く感じた神岡第一トンネルを抜ける頃には脚が痛くなってきた感じがしましたね。。

明治以降、鉱物から亜鉛を取り出す技術が進歩し、産業振興や日露戦争、太平洋戦争などをきっかけとした軍需に応えるため、鉱石が大量に掘り出され、亜鉛生産が拡大していったことなどが時代背景としてありましたと。。

三井金属神岡鉱業所は明治時代から戦争のたびに増産を続け、弾丸や蓄電池の材料である鉛や亜鉛を大量生産し、亜鉛は潜水艦の蓄電池に使う為に太平洋戦争中は増産に次ぐ増産だったらしいと。。

その為に亜鉛抽出後のかすである鉱滓は貯まるいっぽうで、 捨て場がない為に、精錬の後の廃水は充分な処理をせずにカドミウムなどは神通川の上流である高原川に流していましたと。。

このように亜鉛の大量生産が開始された1905年頃から、 カドミウムが神通川流域に大量に集積し、神岡鉱山周辺に限定されていた鉱害が富山県側にも拡大したらしいと。。

増産体制の為に朝鮮人の強制労働者も増えていったと言いますね。。

そんな中で、飛騨神岡駅を通る辺りでは、前は遅いし後ろは速いしで、なんか詰まった感じがして焦りながらレールマウンテンバイクを僕は漕ぎましたね。。

イタイイタイ病は、腰や肩、ひざなどの痛みから始まり、症状が重くなると骨折をくり返すようになるのが特徴で、意識は正常なままで全身を襲う痛みの中、ついに一人では動けなくなり寝こんでしまい、イタイイタイと苦しみながら衰弱して死を迎えるらしいと。。

圧倒的に女性に多く発症し、年齢は35歳から更年期頃にかけての特に出産経験のある女性に多く発症するのが特徴ですと。。

カドミウムの慢性中毒によって起きる病気で、まず腎臓に障害が発生し、次に骨軟化症を引き起こし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化、栄養としてのカルシウム等の不足などが原因となって病気を進行させると考えられていまして、腎障害と骨障害、なかでも骨粗しょう症を伴う骨軟化症を引き起こすのが特徴でありますと。。

息をしても針1000本飲むように痛く、咳をしたり布団を掛けたりしただけでも骨折する事もあり、患者のなかには70箇所以上も骨折している人もいたと言いますから恐ろしい病気ですね。。

カドミウムは、鉱物中や土壌中などの自然界に微量存在する重金属で、大半は亜鉛鉱石などとともに産出されるらしいですが、普段食べる総ての食料にも極微量に含まれていたりするらしいと。。

カドミウム汚染の主な発生源は金属の採掘や精錬の場所であって、空気中に放出されたカドミウムは水中、土壌に堆積し、そこで生育した野菜、穀類、家畜、魚介類等、様々な食品を経由して人体内に取り込まれると。。

カドミウムは青みをおびた銀白色の軟らかい金属で、鉄材の錆を防ぐためのメッキ、電池、及び鉛、スズ等との合金に用いられていたりするらしいと。。

経口摂取によって急性中毒が起こったりすると、吐き気や嘔吐や腹痛や下痢が現れますが、すみやかに回復しますと言う事で。。

要は濃度が高いカドミウムを慢性的に摂取し続けると、とんでもない事になると言う事ですかね?

人体へは約30年間蓄積し続けるそうだとからしいですからね。。

そんな中で、神岡大橋から先の民家なんかを眺めながら進んで行きましたね。。

そんな事で、 このイタイイタイ病最初の発生は、1922年 とも聞かれますが、旧婦負郡婦中町(現富山市婦中町)で1912年の事でありますと。。

神岡鉱山で亜鉛鉱石の採掘が開始されて間もなくと言える時期でありますと。。

三井金属神岡鉱業所から約40km下流の旧婦負郡婦中町と神通川対岸を含む地域が、イタイイタイ病が集中して発生した地域と言う事ですが。。

理由としましては平野部までは高度差が大きく流れが速いのですが、 旧婦負郡婦中町付近では神通川の流れは急に緩慢となり、急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、周囲の水田より川底が高くなっていた為に農業用水として取り入れて、そこで作られた米や穀物を食べたり、また生活用水として飲んだりしていたからだと。。

また下流に患者が少ないのは、井田川、熊野川の合流によって鉱毒が希釈される事でありますかと。。

しかしイタイイタイ病がカドミウムによるものである事が明らかにされるまでは、何か得体の知れない地方病のように言われ、またこの地域に住む人だけが運悪く取り付かれる過去の悪業の果報としてかかった病気の意である業病であると思い込まされてきたらしいと。。

大正時代からイタイイタイ病の患者がいたとされてると言う事ですが、カドミウムが原因と分かるまで、その様な理由からか家族は患者を家の奥に隠していた為に、その実数は明らかではないらしいですね。。

原因不明で治療方法がないまま、患者は、人目をはばかり、激しく痛みにじっと耐えながら孤独と絶望のうち死んで逝ってしまったらしいですね。。

しかしその大正時代からこの事はある程度知られていて、
川の鮎が毒されたり水田の稲の生育不良が起こると言う様な事が、富山日報や北陸政報に載ったりした事が有ったらしいと。。

そんな中で、神岡大橋を越えた先の第二神岡トンネルに進んで行きましたね。。

そしてこの恐ろしい病気に悩まされる旧婦負郡婦中町に、大学卒業後すぐに戦地の野戦病院で傷病兵の治療にあたっていた地元出身の医師である萩野昇が帰って来ますと。。

代々医師の家系で広大な土地も持つ裕福な家系でありましたが、その戦時中に父が亡くなり、多額の税金やらをとられて萩野家は困窮に瀕し、荻野昇が帰って直ぐに父の病院を継ぐ事になったらしいと。。

そして診察を始めると直ぐに今まで診た事が無いような激しい痛みを訴えるこの奇病を目の当たりにする事になりますと。。

初期症状では分かりませんが、痛みは慢性進行性で、痛みが始まると年単位で悪化していき患者はかならず多発性の骨折をきたし、身体中の骨は枯れ枝のようであったと。。

骨は薄くもろくなり、身体を動かしたり咳をしただけで、骨折を引き起こしたらしいですが、 大腿部の痛みをかばうため、アヒルのような格好で歩くようになったり背が縮み子供の様になる患者も多数いたらしいと。。

症状が進んで歩けない患者は、リアカーや寝たままの畳に寝かしたままの状態で苦しみながら病院に運ばれる事も有ったらしいですね。。

骨とは逆に、脳や内蔵は異変をきたさない為に、地獄の苦しみの中で長く生き続け、衰弱して死んで逝くと言う非常に苦しい病気でありましたと。。

前述通り患者は更年期の子供を多く産んだ経産婦がほとんどであり、それによって家庭が崩壊した家も沢山ったらしいですね。。

そして同じような症状を訴える患者が押しかけ、外来患者の大多数を占めるまでになり、「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から荻野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになったらしいと。。

そして荻野昇は、目の前の悲惨な患者を助けたい一心でこの奇妙な病気の解明に乗り出しましたと。。

そんな中で、直線と言う感じで出口が観え、短く感じた第二神岡トンネルを、登りと疲れからか長く感じて僕は抜けて行きましたね。。

そして荻野昇はイタイイタイ病の解明の為の研究に打ち込みましたと。。

父の時代に記憶が有る事や、限られた旧婦負郡婦中町と言う地域の出産経験の有る更年期以降のこの地域に長く住み続けた女性が患者の大半でありますと。。

この病気は血縁のない姑と嫁が同じように発病したことから遺伝病は考えられなかったらしいと。。

しかしあらゆる原因を考えて検査をしましたが、その原因は依然として不明で、治療法がわからないまま患者だけが増えていったと。。

富山県内の大きな病院に紹介しても、やはり分からずに帰されるようなものでありましたと。。

そして荻野昇は地元の荻野病院だけでは解明は無理だと言う事で、母校である金沢大学医学部第一病理学教室を訪ね、イタイイタイ病解明への支援を頼む事にし、先輩の宮田栄教授との共同研究を行いますが、10年余の共同研究は宮田教授が亡くなり頓挫したらしいと。。

病気の初期症状は骨粗鬆症で、中期以降の症状は骨軟化症の症状と一致していて、腎臓の尿細管がまず障害され、尿中のタンパク、カルシウムが増加して、骨が脆くなると言うらしいですが、やはり何故だかは分からなかったと。。

そんな中で1955年5月には、東京北品川にある河野臨床医学研究所の河野稔博士がリウマチの講演のため富山県を訪れて、富山県厚生部から婦中町にリウマチに似た不思議な病気がある事を聞きつけて萩野病院を訪ね、患者達の悲惨な状態を目の当たりにし、原因解明の為の共同研究を約束したと。。

1955年8月4日には富山新聞がこれまで医学界に報告されていない婦中町熊野地区の奇病として大々的にイタイイタイ病を報じて全国に知られる事となり、日本医学界の権威者も注目するようになったと。。

そうして河野稔を中心とした10数人の医師らによる集団検診が萩野病院で行われ、それらしい症状を持つ200人余りを集団検診した結果、イタイイタイ病患者は52人であると判明したらしいと。。

イタイイタイ病はリウマチとは明らかに違う疾患と断言出来ましたが、同じ地区に多発することから感染症の可能性が高いと考えたりしましたと。。

しかし原因はやはり分からずと言う事で、河野稔は二人の患者を東京に連れて帰り、各大学の専門家を集め骨系統の疾患を中心に共同研究が精力的に行われたらしいと。。

そんな中で、長い2つのトンネルを抜けてホッとしながらレールマウンテンバイクを漕いで行きましたね。。

そして世界的な学者たちが参加しての研究が行われますが、 感染症で無い事は分かりましたが、本当の原因は不明のままでしたと。。

原因を不明とは言いづらい学者達はこの地区特有の環境を疾患の原因とし、 この奇病の原因を栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足と結論づけ1955年10月に河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表される事になってしまったと。。

それが原因で有れば全国どこでも有り得る訳で、 萩野にとってこの結論は納得できるものではなかったと。。

そしてこの事は、そんな事無いのに婦中町が日本で最も劣悪な地区と言う扱いを受けた事になり地元の不満を萩野は受ける事にもなったと。。

荻野は権威ある学者の学説に反対できない悔しさを味わいながら、孤立無援のなかで独自に研究を進めることになったと。。

栄養状態やらビタミン摂取量やら様々な事を調べに調べたが分からずに、やはり何故この地域だけなのかと考えた結果、神通川中流の一定の地域に限られていることが分かり、荻野は神通川上流にある神岡鉱業所に注目し、神岡鉱業所の排水による鉱毒説を考えるようになったと。。

何故なら婦中町では神通川の水を農業用水として取り入れ、住民は生活用水や飲料水として利用していたからでありますと。。

そんな中で、往時で通った民家沿いのレールを、もうゴールは近づいて来たかなと想いながら進んで行きましたね。。

そして1957年12月1日の富山県医学会で、萩野は初めてイタイイタイ病の原因として鉱毒説を発表したと。

神通川の水に含まれる亜鉛、鉛、砒素などの鉱毒が体内のホルモンを乱し、二次的にビタミンD不足をきたしイタイイタイ病を引き起こすと。。

地理的条件で神通川流域の婦中町付近に限られると。。

だがそれは神岡鉱山の鉱毒を示す事になり日本の大財閥の三井への挑戦となり周囲の反応は冷たかったと。。

しかし何の証拠もない荻野の説は避難され黙殺されたと。。

その後、証拠が欲しかった荻野のところに、1958年に萩野の鉱毒説に深い関心を示していた東京大学の吉田正美教授が萩野病院を訪ねて来て、その肩書きで神岡鉱山の内部を見学したところ、周囲の緑が全く無くなっている事などから鉱毒説の確信を得たりしたらしいですが。。

しかしそれを裏付ける証拠も無く、研究の協力者はいなくなり、荻野は行き詰まり失意の日々を過ごしていたらしいと。。

しかしこの時期に、イタイイタイ病に関心を持ちこの地を訪れた農学・経済学者である吉岡金市博士が、農作物の被害が鉱毒によるものと断定し協力者となると。。

農業用水の使用地域とイタイイタイ病の被害の地域が一致すると言うデータの作成や、神岡鉱山の生産量と被害の比例関係などの一致を調べたと。。

更に1942年に婦中町の稲作被害の調査において、上流の神岡鉱山から流れた亜鉛、鉛などによる鉱毒であると農林相に報告しました水質検査の専門家である岡山大学教授の小林純博士から神通川の水質を調べたいと言う手紙が届き、水を送ったところカドミウムが多量に検出されて怪しい物質であると言う事に行き着きましたと。。

しかし当時の日本でカドミウムと言うのは知られていなかったらしいと。。

そんな事で文献などを読み漁り探したところ、吉田教授が慢性カドミウム中毒について書かれたドイツの論文を見付けて、イタイイタイ病との一致を確認出来たと。。

そして小林教授のスペクトル分析により、神通川の水がカドミウムに汚染されていることを証明できたらしいと。。

しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるかどうかは、患者に含まれるカドミウムの分析が必要であり、それが分かるものがいなかったらしいと。。

そんな中で旧神岡大橋駅が観えて来ましたね。。

疲れてますが、あと一駅と言ったところでしたね。。

そこで小林教授は人体に含まれる重金属の定量分析の方法を習得するため、1961年5月から3ヶ月間アメリカに渡ったと。。

そして帰国後にイタイイタイ病患者の臓器の分析をしたところ、 患者の臓器からは常人の1000倍ものカドミウムが検出されたと。。

イタイイタイ病発症地区の白米やら土壌やら神通川の魚などの分析をしても数10倍~数100倍のカドミウムが検出されて、婦中町はカドミウムに高度に汚染されていたのが分かったと。。

そして神岡鉱業所付近の川水のカドミウム濃度が異常に高い数値を示していたと。

神岡鉱業所は軍の蓄電池用の亜鉛を生産しており、その過程で生じたカドミウムを廃液として神通川に捨てていたと。。

廃液中のカドミウムが20年から30年間の長期間にわたり川や土地を汚染し、飲食物を通してカドミウムが体内に蓄積しカルシウムを追い出して骨をもろくしてイタイイタイ病を引き起こしていましたと。。

1961年5月に小林教授と萩野昇は富山県知事にイタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告し、富山新聞が翌日に報道すると。。

そして昭和1961年6月24日に、萩野は吉岡教授と共に札幌市で開催された整形外科学会でそれまでのデータを発表することになり、イタイイタイ病は神岡鉱業所から長期間にわたり大量に排出されたカドミウムが川や土を汚染した為に起こった慢性中毒であると述べたと。。

荻野の発表はデータを用いた正確なものであったが、学者達は嫉妬や三井の方持ちで避難したと。。

また患者を抱える富山県も工場誘致を考えているので、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定し、地元の農民達も農作物の売り上げが落ちるなどの為に荻野の説を避難したと。。

荻野病院には嫌がらせの電話とかが相継いで職員はいなくなり、富山県地方特殊病対策委員会には鉱毒説を否定され、更に1962年には妻が亡くなりと荻野はドン底の状態になってしまったらしいと。。

それでも荻野は総てをイタイイタイ病の究明の為に尽力したと。。

そんな中で、旧神岡大橋駅を越えて振り返ると橋を伴う高原川の景観がよく観えましたね。。

後続の方達が詰まりながら迫っていてしっかり漕がねばと言う感じでしたかね。。

そんなドン底の中で、日本整形外科学会で発表した荻野のデータがアメリカで認められ、アメリカ国立保健研究機構から1000万円の研究費が送られてきましたと。。

その資金を元に動物実験などを繰り返して神岡鉱山の廃水を飲むと骨が溶け出す事が証明されて行きますと。。

そうすると日本の研究者や地元民も萩野の学説を支持し、
富山県地方特殊病対策委員会や金沢大学のイタイイタイ病研究班なども、萩野のカドミウム説を次々に支持する実験結果を示し、流れが支持の方面へと大きく変わっていったと。。

そして日本の他の亜鉛工場を調べたりしますと、やはり高濃度のカドミウムとそれに伴う症状の患者が少なかれ発見されたと。。

その後富山県各地で講演が頻回に行われ、しだいに萩野の学説の正しさを知ることになりそして県民の三井財閥の経営する神岡鉱山に対する怒りが高まっていったと。。

そして1966年11月に、それまで萩野を中傷していた婦中町の中から、祖母と母をイタイイタイ病で亡くした小松義久を中心に イタイイタイ病対策協議会が結成されて、婦中町の住民達も神岡鉱業所を訴える方面へと動き出すと。。

住民は鉱害による農作物の被害を戦前から経験していたし薄々分かってはいたが国や大企業が相手では厳しいと諦めてるところもありましたが、ここで立ち上がりましたと。。

そしてイタイイタイ病を目の当たりにした政治家なども動き出して、1967年12月6日にはイタイイタイ病の患者代表3人が都内に出向き、園田厚生大臣や椎名通産大臣に病気の実情を訴えテレビでも報道され、背が異様に縮んだ患者の痛がる表情もありイタイイタイ病の恐ろしさが国民の理解できるところになったと。。

そして1967年12月15日に萩野は参議院産業公害特別委員会に参考人として証言を求められる事になると。。

そこで荻野は涙ながらに婦中町の患者達の悲惨な状況を訴え、 1968年5月8日に厚生省はイタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認め、日本の公害認定の
第1号となりましたと。

萩野昇のイタイイタイ病の研究は世界的評価を受け萩野の名付けた病名が国際的病名となり、WHO(世界保健機構)などの国際機関でもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に結論づけましたと。。

萩野昇は日本医師会最高優功賞、厚生大臣感謝状、朝日賞(社会奉仕賞)などを次々に受けることになり、1990年に74歳でこの世を去りましたと。。

そんな中で、レールマウンテンバイクを漕ぎだした最初の県道477号沿いのカーヴまで来ましたね。。

そして国の認定を受けてからイタイイタイ病は裁判所に場所を変え争われることになりますが。。

地元婦中町の出身の若手弁護士である島林樹などを中心に20人ほどの弁護士が無報酬で協力する事になり、被害者や町民と議論を重ね、1968年3月9日に第1次として富山地方裁判所に原告28人が三井金属神岡鉱業所を相手に提訴し5月24日に第1回公判が開始されたと。。

これに対してそうそうたる三井側弁護士は カドミウム説を全面的に否認し、証拠調べに入ることを拒み続けて裁判の長期化を狙うと。。

これに対し原告弁護団は 損害の実情を知ってもらう為の現場検証を求め1968年11月15日に現場検証開始しますが、神岡鉱業所は現場検証で重要な場所を上手い事閉ざしてはぐらかし、現場検証は打ち切られると。。

その後想い通りには裁判は進まず、裁判費用も底をついてきたところで被害者弁護団は、被害者は三井と比較すれば相対的に資産が少ないと言う主張でほぼ全員に対しての訴訟救助を求め、裁判所もこれを認めると。。

裁判所も徐々にこの公害について理解し始め、地元にも変化が現れ始めると。。

まずは婦中町議会が全会一致でイタイイタイ病訴訟を支援するために100万円を拠出することを決定すると。。

しかし工場誘致を目論む富山県からクレームが入ったりすると。。

しかし世論は被害者救済に傾いて、富山県内のほとんどの市町村がイタイイタイ病訴訟支援を決議する事になると。。

1969年3月には証人尋問が始まり、原告側はイタイイタイ病の原因がカドミウムであると言う事を患者も交えて理論的に訴えると。。

追い詰められた三井側は、第三者による科学的な因果関係の鑑定を求めると。。

しかし鑑定申請が受理されれば裁判の長期化は避けられず、原因側は発病のメカニズムではなく、原因がカドミウムであることが分かりさえすればよいと訴えると。。

こうした中で、最高裁判所にも動きがあり1970年3月に最高裁判所で全国民事裁判官会同が開かれ、今後の公害裁判では加害企業に立証責任を負わせるべきだと言った、被害者保護の立場を打ち出し、三井側の鑑定申請は却下されましたと。。

そして1971年6月30日に、因果関係の立証には必ずしも科学的な証明が必要ではないとする画期的な判決で、裁判所が原告側の訴えを全面的に認め原告側が勝訴すると。。

日本の公害裁判史上初の原告が企業に勝訴した裁判でありますが、三井金属側は即日控訴しましたと。。

しかし1972年8月9日の控訴審でも原告側が勝訴し、判決が確定しましたと。。

判決確定後に四大公害病などの訴訟も原告側が次々に勝訴して、こちらイタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所による患者全員への補償が始まりますと。。

そんな中で、ゴールである旧奥飛騨温泉口駅が観えてきましたね。。

この裁判の過程で企業と癒着した行政の責任や、いたずらに論点をはぐらかし原因究明を遅らせた科学者の責任が浮き彫りにされたらしいですが。。

とりあえず慰謝料として死亡患者全員に1000万円、生存患者には800万円の支払いを命じたらしいと。。

被害住民団体および弁護団は控訴審判決翌日に被告の三井金属鉱業本社と直接交渉を行い、イタイイタイ病の賠償に関する誓約書、土壌汚染問題に関する誓約書、公害防止協定を締結しましたと。。

公害防止に関しましては、1972年から毎年1回、公害の原因企業の立入調査が行われて、イタイイタイ病を患った家族や親戚をもつ方や、カドミウムの被害を受けた農地の所有者、弁護士、学者などが行っていますと。。

土壌汚染については、最終的に1,630haが汚染地域に認定され、1979年から土壌復元事業が始まったものの、工法や費用の問題、農家の農業離れ、農地転用の問題などの難問が山積みになり工事が遅れていましたが、2012年3月17日に完了しましたと。。

40年という長い年月と400億円以上という金額が必要でしたが、工事が終わった土地で作られた米のカドミウム濃度は国の決めた基準を大きく下回り、安全で豊かな大地を取りもどしたらしいと。。

緑化対策やら色々で、神通川のカドミウム濃度も国の決めた基準を大きく下回り、清らかで安全な流れを取りもどしたらしいと。。

しかし実際には原因物質のカドミウムが地下に残る為に予断を許さないところもあり 、よごれた土地を元にもどすまでにはどうなのかと。。

そして被害者の賠償となりますと、患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付され、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給されるらしいですが。。

しかし患者の認定が難しいところで、 認定患者は2014年の時点では198人、要観察者が408人となっており患者数は増加し続けているらしく、行政側の患者認定審査会の審査があまりに厳しすぎた印象はぬぐえないとか。。

2013年12月17日に、被害者側と企業は国の基準で救済されない患者に1人60万円の一時金を支払うことになり、イタイイタイ病を含むすべてのカドミウム被害問題について全面解決したとする合意書を交わしましたらしいと。。

そうして最初の患者発生からおよそ100年をかけてイタイイタイ病はようやく問題の解決にたどり着いたのですと。。

しかしこれからも上流にカドミウムがある限り,今後も常に監視を続けなければならず、イタイイタイ病は被害地域住民にも加害企業にも長期にわたる重い課題と責任を負わせていると。。

そんな事で、けっこう疲れてゴールのスロープを登りましたね。。

ゴールして想いましたのは、最近は自転車には乗って無かったですし、やはり帰りの登りで其れなりに疲れたと。。

そして Gattan Go!! はとてもユニークで楽しい新感覚のアクティビティと言う事ですが、何かこう考えてきますと、やはりこの神岡町と言うのは鉄道にしろ何にしろ東洋一とまで言われた神岡鉱山の街であると言う事を強く考える事になりましたね。。

日本の産業の発展に献上した神岡鉱山と言う事らしいですが、負の遺産も残す事になると。。

何だかこの公害問題と言うのは、明治以降の急激な近代産業の発展に始まり高度経済成長期の重化学工業化と言った国が発展していく中で避けて通れないところも有ったのかと想ったりもしましたが、Gattan Go!! に乗りに来てそれを初めて知ったような僕には論じるのは厳しいところですね。。

そんな事でレールマウンテンバイクは楽しく爽やかでしたが、レールには歴史を感じると言ったところでしたと。。

帰りにヘルメットを施設内の使い古しの採集コンテナみたいなのに返却して外に出ましたね。。

テーブルにしても何にしてもリサイクル品使ってコストは抑えてる感じがしましたかね。。

スタンプやら色々と有る感じでしたが、次の組も有りますし、忘れたけどさっさと外に出た感じでしたかね。。

隣接した場所にはがったん茶屋なるウッディ調の軽食屋が有りまして、一服していこうかと想いましたが、先を急ぎスルーしてしまいましたね。。

前述通りこちら Gattan Go!! は創業から客足を延ばし、2016年度には年間で213日営業して41,988人を動員したと言う事ですが。。

神岡鉱山の最盛期の街の人口を軽く越える人数の利用者がいる訳ですから成功してるもいいところなんでしょうね。。

しかし都市圏から場所が微妙に遠いですし、このままでは1度目は良いですが、再来客が見込めずに一過性で終わる懸念が有るのかと想いましたが。。

しかし飛騨市では、旧神岡鉄道をガッタンゴーで活用してきたことを契機に、旧奥飛騨温泉口駅から旧漆山駅までの10.5キロを鉱山の街として歩んできた歴史と文化を活かす施設として整備し、地域の観光資源としての活用や地域振興を図ることを目的とした飛騨市ロスト・ライン・パークと位置づけましたと。

なんでもこれから奥飛騨温泉口~漆山間の約10kmで「アントロ」を運行予定 アントと呼ばれる入れ替え用の小型動力車にトロッコを連結したアントロと言う乗り物を運行したり。。

旧茂住駅と旧猪谷駅のあいだ約10kmでガッタンゴーとアントロを運行したり。。

約4kmの茂住トンネルで徒歩による探検ツアーを企画したりと、ほぼ神岡鉄道全線にわたる廃線レジャー施設構想が有ったりするらしいと。。

そう考えますと、観光客のリターンも考えられている感じで中々のものですかね。。

駐車場で車に乗ろうとすると、奥には陶芸作家さんの陶芸工房兼ギャラリー兼カフェの(やまの庵)だかの店があり。。

おくひだ1号の上にウルトラマンのマスコットみたいなのが乗っかってる壊れかけのリアカーみたいなのが置いてあり、目につきましたがよく分かりませんでしたね。。

太股辺りが筋肉痛になっているのを実感しながら車を走らせて行きましたね。。

そしてこの奥飛騨温泉口駅から次の目的地である平湯大滝に向かうと言う事で、奇しくも奥飛騨温泉へ向かう感じになりましたかね。。

他に大ルートが有る中で、30km強の道のりは確かに温泉口と言う名称を使うには厳しい感じですが、爽やかな緑の中を走って行った感じでしたかね。。

帰りは松本から長野自動車道~中央高速でと言う事で、 何だか Gattan go!! より神岡鉱山に目が向いて、近代から現代の日本社会の様々な事を学ばせて貰った気がしながらこの地を後にしましたね。。

最後に。。

この Gattan go!! に関しましては、やはり新しいタイプの乗り物と言う新鮮さも有って、とても印象に残る楽しい体験が出来たかと想えましたかね。。

関東から向かう場合としては、場所的に微妙に遠い処かとも想いましたが、他の観光地を巡りながら、1泊以上で向かえば問題ないところですかね。。

1度行けばいいやと言う事にはならないかと言うと、新しいコースも創ると言う事ですし、リターンも望めると言う事で、何だかうまくやっていける企画と想えましたかね。。

更に日本ロストライン協議会とかの全国規模の廃線観光団体を設立して Gattan go!! に類似する施設を各地に創っていけば、何やら面白い事になるのかも知れませんしね。。

そんな事で、僕自身はこの岐阜県辺りはこれからも訪れる事は有ると想いますので、その時に時間が合えば新コースを体験してみたいとは想いましたね。。

この様な街を伴う巨大鉱山跡と言える場所は、例え鉱山が閉鎖した後でも、再利用と言う観点でも色々と使えるもんだと想いましたよ。。

何かこの Gattan go!! を訪れたおかけで、日本の産業の歴史の一端を学べたような気がして有意義であったと想うところでしたかね。。

何かこの地と言うのは、 栄華を極めた鉱山時代とイタイイタイ病が頭を過り、とてもインパクトを残す地になったと言う事で終わりたいと想います。。

岐阜県飛騨市神岡町東雲1327-2

駐車場 奥飛騨温泉口駅に併設された40台だか50台だかそれ以上だかは分からないが、広い駐車場があったと。。

問合せ https://rail-mtb.com/